「どうせ私なんて」を乗り越える⭐︎地道な方法
一度も「どうせ私なんて」と思ったことのない人っているのでしょうか。
最近ふと、東京大学入学式での上野千鶴子さんの祝辞を思い出し、改めて読み返していました。特に印象深かったのが、頑張ったら報われると思えることが、自分の努力の成果ではなく、環境のおかげだったのだ、という部分。
平成31年度東京大学学部入学式 祝辞より引用
ぜひこの部分だけではなく全文を読んでいただけると良いと思いますので本文掲載リンクを置いておきます。
あなたたちはがんばれば報われる、と思ってここまで来たはずです。ですが、冒頭で不正入試に触れたとおり、がんばってもそれが公正に報われない社会があなたたちを待っています。そしてがんばったら報われるとあなたがたが思えることそのものが、あなたがたの努力の成果ではなく、環境のおかげだったこと忘れないようにしてください。あなたたちが今日「がんばったら報われる」と思えるのは、これまであなたたちの周囲の環境が、あなたたちを励まし、背を押し、手を持ってひきあげ、やりとげたことを評価してほめてくれたからこそです。世の中には、がんばっても報われないひと、がんばろうにもがんばれないひと、がんばりすぎて心と体をこわしたひと...たちがいます。がんばる前から、「しょせんおまえなんか」「どうせわたしなんて」とがんばる意欲をくじかれるひとたちもいます。
今でこそ自己卑下するようなことは全く考えなくなった私ですが、学生時代、どう頑張ってもまともな論文が書けなかった頃、「私が書くより先生や先輩が書いた方がいいに決まってるじゃん」とか「私は学問を研究するのには向いていないんだ」とか、荒んでいたというか、駄々を捏ねていたというか、そんな青い時代もありました。
いつの間に私は自己卑下をしなくなったのだろうと振り返ると、怖いもの知らずの無双状態だった子供の頃を除けば、ある程度大人になってからかもしれません。
社会に出てから、組織やコミュニティなどさまざまな場で積み重ねてきた成功体験。上野さんが仰るように、その成功の場を用意してくださったり、サポートしてくださった多くの方々がいたのは確かで、もう感謝しかありません。
ただ、その成功体験があっても、最終的に「誰かに褒められたから」という外側の何かに依存した充実感では、いつまでも「自分なんて」から抜け出せなかっただろうとも思います。本当の意味での成功体験は、他でもない自分が自分の尊さに気づくということ。自分が自分を知っているということ。その気づきにつながる学びや、学びと矛盾しない経験。それらが組み合わさって、少しずつ本当の意味での自信を理解していったように思います。
じゃあどうしたらその尊い自分に気付けるの?というと、地道に自分に出来ることを増やし、周りの役に立つことだと思っています。自分には何も出来ない、という人もいるかもしれないけれど、そんなことはなくて。与えられているようで、実は自分が社会も環境も支える側であったりします。もちろん人それぞれに与えられた能力を最大限使い、真っ当な努力をする必要はありますが。
自分が世界を支えている側で、喜びを生み出す存在であるとわかると、愛情が自家発電されるイメージで、自己卑下なんてどこへやら、という感じになります。
現在進行形で「私なんて」と苦しい思いをしている人には、一足飛びに楽になるよとは言えない上に、社会の役に立ちなさいというお説教めいた内容で、到底聞いてもらえなそうな気がしてきましたが・・この思いがいつか誰かの役に立つことを祈って。