戦争の記憶を辿る旅 in 沖縄
戦争や紛争という負の側面からは、つい目を背けてしてしまいたくなるけれど、一度しっかり向き合ってみようと、学友に助けられながら少しずつ学んでいます🕊️
防衛省⇨日吉台地下壕⇨今回は沖縄へ
当時の状況については知らないことも多いし、いろんな要因があるのだと思うけれど…なぜ負けるだろうとわかりながら、撤退ではなく、時間稼ぎの負け戦を続けたのか。
結果どれほど悲惨な状況になったかは、私がまだ知らない情報も多くあると思うので、ここでは今回お聞きできたほんの一部だけ触れてみたい。
大本営は当初、航空戦に持ち込み、その空母に沖縄をと考えていたようだけれど、地理的に見ると明らかなように、今も昔も沖縄は様々な国や地域にとって要となる場所。敵軍は本気でおさえに来るわけです。
沖縄周辺は空も海も抑えられ、日本軍は結局機体を持ち込むことができず、地上戦を覚悟するしかなかった。
軍の司令部や病院機能は最初は建物内にあったけれど、それらも早々に爆撃にあい、手掘りの豪へと移動。そこからいざ出陣!といっても・・資源が乏しく鉄がないので、手にしているのは陶器製の手榴弾や槍のみ。
せっかく作った地下壕も攻撃にあい、そこにいた人々は動ける人を中心に更に南へと追いやられ、最後は自然洞窟「がま」へ逃げ込むしかない。
それでも司令部は降伏せず、長官自身が自決するまで、最後の1人まで戦うのだという方針を変えなかった。
その間に巻き込まれた人々の様子は、心の準備をしてから、皆さんそれぞれのタイミングで平和記念館などで知ってもらえたら思うけれど、沖縄では4人に1人が家族を亡くし、南部ではそれが2人に1人になるという悲惨な状況。
今でも土地を掘れば遺骨や銃弾が見つかり、全てが掘り起こされるにはあと50年はかかるだろうとされている。
残る疑問は、なぜ負けるだろうとわかりながら戦争を続けたのか。
「今の時代はNoと言えますが、当時はそうではなかった」と、海軍豪を案内してくださった方の言葉。
ではなぜNOと言えない組織や、NOと言えない社会システムになってしまったのか。
なぜNoと言えない組織やNoと言えない社会システムになってしまったのか。
あったかもしれない様々な声は、なぜかき消されてしまったのか。Noとはっきり言えなくても、Yes, but… と議論や対話をする余地をどうしたら残せたのか。
私たちは過去から学ぶことで、どんな選択肢を作っていけるのか。
そんな問いが残る旅でした。